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震災歌集 [こころ]

先月、「震災歌集」という本が出版されたそうです。


震災歌集

震災歌集

  • 作者: 長谷川 櫂
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2011/04
  • メディア: 単行本



著者は長谷川櫂。俳人です。
震災からわずか12日間のあいだに詠んだ歌をまとめたもののようです。

まだ読んでいないので、
俳人である長谷川氏がなぜ短歌という表現方法を選んだのか
自分の目でたしかめたわけではありません。

文語の定型短歌を選んだ点について、読売新聞の書評で触れられています。

短歌という表現方法を用いること、震災との向き合い方、距離の取り方について
書評の中にひとつの答えがあるように思います。


『震災歌集』 長谷川櫂著

私の心、あなたの心

 まず興味をもったのは、今回の震災を、俳人である長谷川櫂がなぜ短歌に詠んだのかということ。

 「荒々しいリズムで短歌が次々に湧きあがった」と言うが、その刹那、言葉は俳句を選ばなかった。そこに短歌という定型の本質があるのだと思う。

 時を隔てた映像なら見たことはある。今回のが今までと違うのは、凄(すさ)まじい津波がライブとしてテレビ画面に溢(あふ)れ続けたことだ。それを見た人は誰も、心を失くし言葉を忘れてへたり込む。そして、その先にようやく浮かびあがった心を、言葉として結ばせるのは短歌しかなかった。

 「かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを」「降りしきるヨウ素セシウム浴びながら変に落ち着いてゐる我をあやしむ」「火の神を生みしばかりにみほと焼かれ病み臥(こや)せるか大和島根は」――誰にも詠めそうな伝統短歌(和歌)で、内容は共感しやすい。

 抒情(じょじょう)と定型を本質とする短歌は、この列島に住む人々が見いだした、おのれの「心」を言葉にできるゆいいつの方法だった。だから句作を本職とする長谷川ですら、五七五七七が口をついて出たのである。

 同じく定型表現でも、三句しかない俳句はまっすぐに心に向き合うことを避けようとし、五句の短歌は自らの思いを歌おうとする。しかも定型であるゆえに、表現された「心」は私の心であるとともに、あなたの心にも重なる。ということは類型化しやすく共振しやすいわけで、本書の歌々も、いずれは「作者未詳歌」「読み人知らず」へと昇華するだろう。そこが、個性を前面に出したい現代短歌や現代詩、あるいは小説とは根源的に違うところである。

 映像を眺めているしかなかった人の無力感をどのように掬(すく)い取るか、今はまだ声など出せない被災者の心と言葉を、どのように拾いあげ遺してゆくか。さまざまな手段があっていいが、定型であるという点で、短歌は有力なツールの一つになるということを、本書は教えている。

 ◇はせがわ・かい=1954年、熊本県生まれ。俳人。句集『虚空』で読売文学賞。本紙朝刊に詩歌コラム「四季」を連載。

 中央公論新社 1100円

評・三浦佑之(古代文学研究者・立正大教授) / 読売新聞 2011.5.1

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コメント 2

浅草大将

以前、俳句をやっておられる方と多少のやりとりがあったのですが、その方が、癌の疑いで死と直面したときに、詠まずにいられなかったのは俳句ではなく短歌だった、ということがあり、そのことを思い出しました。

民族精神を云々するには慎重でなければならないと思いますが、生命や実存といったレベルで、短歌という表現形式は日本人のアイデンティティと、ほとんど呪縛といえるまでに深く結びついているのかもしれない、改めてそう思いました。
by 浅草大将 (2011-06-29 00:41) 

purple_aster

浅草大将さま

コメントありがとうございました。

たぶん俳句という表現方法は、詠み手も自分の感情をそぎ落とし、
精錬しなければならない一方、読み手は共感する前に
そぎ落とされた部分を補足する作業が必要になるのでしょう。

「圧縮」と「解凍」という呼び方をどこかで目にしましたが、
短歌より俳句の方がその度合いが高いのではないかと思います。

書評にあった「共振」という語はその点をよく表しているように思います。
by purple_aster (2011-06-29 05:46) 

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