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西中眞二郎さんによる選歌 [題詠blog2011]

西中眞二郎さんは毎年題詠blogを選歌なさり、
最終的に百人一首を編まれているそうですが、
拙歌について以下の選歌をいただきました。

001:初 あかねさす紫の芽の吹き初めてミモザ枝垂るる冬のひだまり

005:姿 姿見にかかる端布(はぎれ)は佳き日々の名残か祖母は百歳(ももとせ)を
生く

007:耕 晴耕をやむるは亡妻(つま)を想ひてか釣りに興ずと文の来たれり

009:寒 禍きまでひたくれなゐにしなだるる寒緋桜(かんひざくら)を身ぬちに抱く

012:堅 春雨のしづく置きたる堅香子(かたかご)は恋はかなきを知りてうつむく

015:絹 生糸積みし港の名残り横濱(はま)の名を今に伝ふる絹のスカーフ

017:失 失衡の予感をはらむゴンドラに差し向かひつつふたり黙(もだ)せる

020:幻 ひとりゐて閨が窓辺に降る雪にかさね見つるは花の幻

022:でたらめ でたらめに置きしと思ふ色柄の相響きあふカンディンスキー

024:謝 ペルソナのおほえるは誰そ素顔なといづくにか捨てなむ謝肉祭

025:ミステリー 黒蝶(こくてふ)の夢より生ふるミステリー胸のナイフをわたしは抜かぬ

036:暑 暑気払ひとて取り分くる梅ひとつ肌の青の玻璃皿に映ゆ

037:ポーズ ポーズより解き放たるる踊り子の鎖骨に蒼きかげ宿りけり

039:庭 蝋梅のごとき仙人掌ほころびて我が狭庭にも春おとづれぬ

041:さっぱり さつぱりと剃り跡あをき襟足の背(せな)に匂へる祭り半天

042:至 いのちにも代ふる至福を知らぬまま永遠(とは)に彷徨ふ蓬髪のかげ

044:護 護りえぬいのちありけり残されし夫(つま)の挽歌は詠まれぬままに

045:幼稚 都合よきをんなたらむと思ひしもときに幼稚な駆け引きをせむ

046:奏 ゆくりなく縺れては解く不協和音すへに美(くは)しき二重奏(デュオ)をかなでむ

047:態 奔放の姿態とみゆる刹那にも真沙子のひとみ澄みてあらなむ

054:丼 開化丼はじめし日より荒井屋の暖簾にけふも浜風の吹く

055:虚 うつくしき虚像ならまし産毛なきビスクの頬を撫づるてのひら

057:ライバル アライバルのランプ点れば所在なきひつじの群れはゲートをくぐる

059:騒 おほ川はこころ騒ぎをうつすごと潮の満ち干に波さかまきぬ

062:墓 月の面(も)の蒼きくぼみは眠られず夜を咲ききりし花の墓碑銘(エピタフ)

064:おやつ おやつばめ餌はこび来ぬおのが身の細るを知らぬ機械となりて

069:箸 塗り箸に白蝶貝の桜ばなひそと散らうて春をしつらふ

070:介 狷介と言はれしもふとあたたかき目を向けくれるひと時のあり

071:謡 地謡のこゑ潮鳴りのごとくにて怪士(あやかし)の眼の波間にひかる

073:自然 秋立ちて黄葉(もみぢ)あやなる自然薯(じねんじょ)の葉裏に小さき零余子(むかご)いきづく

075:朱 西つ方朱華(はねず)の空を惜しみつつみぢかき春の日の暮れにけり

077:狂 狂ほしき嵐の去りて天井の白きを空のごとくに眺む

078:卵 つと毀れ拡がりゆける卵黄にゆるき破戒のかなしみを見つ

079:雑 改札に君を送れば雑踏はたがひの生(しやう)を捲いて流るる

085:フルーツ 目に慣れぬフルーツに手を伸ばしつつ外つ国の香に酔ひ痴れし夜

089:成 鶴首を一気呵成に引き上げし織部のあをはあたりをはらふ

099:惑 未だ視えぬ「詠ふこころ」に惑う吾の闇にやさしきリルケの手紙


計37首も選歌いただいたことに、正直驚きました。
完走してからすでに3ヶ月程度経ちますが題詠blogは初参加で、
百首連作になさる方やテーマを決めて詠まれる方もある中、
文語旧かなという以外は特に縛りも設けず、
怖いもの知らずで挑んだ結果が良い方に転んだのだと
都合良く解釈しております(笑)。

以前記事にした夏美麦太朗さんと同じく
西中さんにも独自の選歌基準があるように思います。

短歌と私(短歌的自叙伝と私の短歌観)」という記事を挙げておられますが
選歌の基準もそれに則ったものであるように見受けられます。

加えて気づいたことは、

いわゆる日常詠に近い、細かな目線で詠んだもの
詠み手の身近な風俗を詠み込んだもの
題詠の指定をそのまま使うことにとらわれず、独自の使い方をしたもの

を比較的頻繁に取り上げておられることです。

西中さん、夏美さんともにN短などのご常連と伺っており、
かつそれぞれの嗜好が異なったことで
「読み手の目」に対する意識を具体的に感じられたことは
大変よかったと感じています。

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コメント 4

くまんパパ

紫苑さん、何かと忙しく、返信が大変遅くなってしまいました。
きのう返信しようと思いましたら、あいにく「13日の金曜日」だったので、一応避けて今日になりました(^^)

さて、短歌での宗教詠(特にキリスト教関連)についてお尋ねいただきましたが、そんなに特別な見解を持っているわけではありません。
ごく常識的なお答えになると思います。

真摯に、真面目に詠むということ。
敬虔な、熱心な信者の方がいる以上、これは人間として当たり前ですね。
私の妻もプロテスタントの信者です。

また、教義・教理は十分研究・勉強し、誤りのないようにすること。
これまた当然ですよね。

その上で、現代に生きている「私」独自の視点・表現を打ち出すこと、などでしょうか。

なお、作歌に際しては、私の場合、宗教は表現に従属します。
表現が信仰に優越します。
・・・これが最も重要な点かも知れませんね。

一首目 「独り子を遣はしたまふほどに世は出来損ひと神懺いたまふ」

が、私なりの相当なチャレンジであることは、分かる人には分かるでしょうし、紫苑さんもお察しのことと思います。

これはもちろん、ヨハネ伝福音書の有名な一節を踏まえた上で、パウロ書簡、とりわけ「ローマ人への手紙(ローマ書)」の「陶工(すゑつくり)の喩え」など、予定説(プレデスティネーション)を示した部分に踏み込んだものです。

つまり、測るべからざる神の意志(御心)の忖度を試みたものです。

「汝の神を試みるなかれ」(マタイ伝)を思えばギリギリですが、冒涜・涜神にはなっていないと思います。

達成感を感じた作品です(^^)

by くまんパパ (2011-05-14 17:19) 

purple_aster

くまんパパさま

真摯なコメントをありがとうございました。

挙げられた点については全く同感です。
ただひとつ、教義に関連して、文芸作品の場合、外典の取り扱いはなかなか難しいものがあると思います。

短詩文学ではなく小説ですが、ニコス・カザンザキスの「キリスト最後のこころみ」は必ずしも聖書に沿っておらず、映画についてもクリスチャンの間で上映反対運動が起こりました。
また、板東眞砂子さんの「旅果ての地」は外典とされる「マリアによる福音書」が重要な役割を果たしています。

いずれも正統派のクリスチャンから見たら許し難いものかもしれませんが、文学的にはたいへん面白く、かつ神と人間の存在を問う力も持っていると思います。

その点も「表現が信仰に優越する」といえるのかもしれませんね。

私が3月号に連作として掲載した「マリア」の中には、涜神とはいわないまでも人物像の捉え方としてぎりぎりアウトではないかと意識しつつ詠んだ作品もありました。

くまんパパさんの一首目には確かにどきっとさせられましたし、連作の中で一番印象に残りました。
私にはできない表現だなと感心しきりです。
「達成感」、わかるわかるww。
by purple_aster (2011-05-15 06:31) 

くまんパパ

僕はアポクリファ(外典)の熱心な読者ではありませんが、「ユディト書」なんか、物語としても面白いですね。

「寝首を掻く」という言葉を地で行く壮絶な話で、欧米の小説や映画に繰り返し出てくる、「闘う高級美女スパイ」みたいなイメージの淵源という気がします。
オタクの女神「エヴァンゲリオン」の綾波レイなんかも、その末裔の一人かも。

カザンザキスの「The Last Temptation of Christ」(小説の邦題は「キリスト最後のこころみ」、映画邦題は「最後の誘惑」)は、もちろん知っています。
この「Temptation」は、マタイ伝第4章などと同様の「悪魔の誘惑/試み」のことですね。

映画はものすごく好きで、リアルタイムで見ました。僕の洋画鑑賞歴の十指に入る、重厚で美しい傑作だと思います。
ビデオも持っていますが、私はテレビのない生活をしています(テレビを持っていない)ので(笑)、先ほど昼食時に職場のテレビでコマ切れで一部分を見ました。

ラストの、十字架上のイエスが見る、幻想というか「(天使に化けた)悪魔の誘惑」の場面があるわけですが、本当にすごいですよね。

マグダラのマリアと結婚してまぐわいをして子供も作ってしまう。そこにパウロが来て口論する(笑)
・・・反対運動が起こったのもむべなるかなですが、作者の突き詰めた全思索が詰まっていますね。

僕も、キリスト教を確立したのはパウロだという見方に一理あると思っていますので、キリスト教の「構造」が俯瞰できるといいますか、作者が言いたいメッセージはかなり理解できました。

もちろん、それより遥か以前に、ドストエフスキーが傑作「カラマーゾフの兄弟」の「プロとコントラ」の中の有名な断章「大審問官」でキリストを登場させて、審問官が「審問(尋問)」をします。

・・・これらはみな、文学者たちの命がけの「こころみ」でしたね(^^)
by くまんパパ (2011-05-16 16:13) 

purple_aster

くまんパパさま

「ユディト記」はプロテスタントでは外典ですが、カトリックでは正典なのですよね。
文学に限らず、クリムトの絵なども有名です。

一方「マリアによる福音書」は完全に外典とされていますね。

偶然ながら、私も「最後の誘惑」はロードショーで見ましたしビデオも持っています。
仰るとおりカザンザキスの思索が詰まっていますね。
マリアがイエスに選ばれたという点では「マリアによる~」の影響もあるのかもしれません。

どちらかというと人間的なアプローチはノンクリスチャンには取っつきやすい切り口ですし、
哲学的な部分では示唆に富んでいると、私もあの作品は肯定的に捉えていますが
アッセンブリー教団に所属している知人などは頭から否定していましたね。

教義としての是非はともかく、文学に携わるものは宗教を多面的に捉えたくなる曰く言い難い欲求があるのだと思います。

by purple_aster (2011-05-16 17:22) 

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